▲目次へ戻る
安楽死と私のパンツ
 安楽死って言うと、なんか凄いタブーなことのように受け取る人多いんじゃないかな。
 例えば、病院に入院して治療を受けても社会人としての復帰の見込みがない患者さんが居たとするわね。それでも、延命措置でチューブだらけの姿でただ生きている患者さんの家族が、「本人もこんなに苦しんでいるのですから、何とか苦しまないように早く楽にさせて上げて下さい」と先生にお願いするわね。安楽死は法的にまだ認められていないから、頼まれても出来ないのに、東海大学の先生のように心優しいお方は、つい「治療を続けても後半年も持たないから」と家族の申し入れを受け入れてしまったのよね。その為に、後からその家族に裏切られて、訴えられて医師免許まで剥奪されたでしょう。
 安楽死の基準として、絶対に本人以外の人間、それが妻や夫や家族だとしても、それは認めるべきじゃないと言うのは正論だと思うのよ。
 でも、病院にも架かるお金が無くて、癌に全身冒されていて、末期の痛みが全身を襲うなんて人が居ないとは言えないわよね。そんな人は自分の体力が続く限り、その痛みと共に生き続けないといけない訳よね。
 21世紀に入って、毎日が今までの価値観では生きて行かれないような変化が起きてるわけでしょう。景気のいいときに大きな建物造ってしまった大会社とか、生命保険会社とかが それを維持して行かれないのが現状で、ましてや医療保険そのものも、今のままでは維持できないギリギリの所まで来ているわけじゃない。
 それは年寄りが予想以上に長生きしている為、世話をしなければならない年寄りの数が多く成りすぎているからだと思うのね。
 政府はその数の多さを把握できなかったから、今になって「保険料が足りないから保険料の値上げはやむを得ない」何て言ってるけれど、用は計算違いが出てきたと言うことだわよね。保険料が上がって、それを払えなくなってしまったら、医者にも診てもらえ無いじゃない。老人が家族の重荷になってしまうような政策しか取れないから、悲劇も生まれるのよ。
私は去年、家族に腸関係で癌になった人が2人もいると医者に言ったら、直ぐに検査に廻されたのね。その検査の時に、全身麻酔を掛けられたのよ。1秒も経たない内に先生の言ってることが聞こえなくなって、意識も何もない世界にいたわね。もちろん肛門からメスと鏡の付いた管を腸の中に入れられたのでしょうけれど、私は全く起こされる瞬間まで何も感じないし、記憶もなかったのね。目を覚ましてからパンツを履こうと思ったら、もう既に履いていたわよ。
 その経験から、安楽死って、このように麻酔を先に掛けて貰ったら、死ぬ薬が効いてくる頃には全く感覚が無くて苦しむことはないんじゃないかと思ったわね。麻酔を掛けられる前に、家族と真剣にお別れも言えるしね。
 よれよれになって、植物人間のようになって、家族の負担になって生きてるより、こんな方法があったらどんなにか死ぬことの恐怖が少なくなるだろうとも考えたのよ。
 苦しいから、痛いからって、自分で自殺できるほど頭狂って居なきゃ自殺なんか出来るものじゃないわよ。ましてや、90歳100歳の老人にそんな力無いと思うのよね。
 「人様の世話にならずに死ねたら」誰でもそう思ってるわよ。でも、こればかりはどういう風に死ぬのか誰にも解らないのよね。
 最近健康ホリックの人多いじゃない。それもやっぱり「死ぬ瞬間まで自分の世話は自分で出来るように」、と言う切なる願いも込められていると思うのね。
 私の友達夫妻で、妻が「健康」の2文字を口にすると、「内の奴は100歳まで生きる気で居るんだから」とうんざりする夫が居るけど、違うのよね。
前のページ  次のページ   [1]

▲管理者用