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常識という多数決という常識
 「そんなこと常識じゃない」と良く人は言いますが、常識があるとか、常識がないとか…。これを定義付けるのはとても難しいわ。だって、「こういう場合こうするのが常識だ」みたいなことが具体的に、どこかに書いてあるわけじゃなくて、「公序良俗に反しない」と言う漠然とした範囲でそれぞれが勝手に考えているだけでしょう。
 例えば、昔から躾のやかましい家で育った人と、比較的自由奔放に育てられた人と、全くの放任主義で育てられた人では、幼児期に吸収する行動のあり方や、考え方の違いはあるし、ましてやそのまま大人になったら、その差は凄く大きい訳よね。その違いをどこかで、誰かに厳しく修正される訳じゃないから、違ったまま社会の中で共同生活をするのよね。
 「今の若者は」と年取った人が口にするけど、今の若い人って、親が共働きで、余り家にいないとか、専業主婦の母親が居ても、「子供に嫌われないように」と考えているのか、子供に対して凄く下でに出ているというか、ご機嫌取っているというか、子供に甘いのよね。
 昔のように、親が子供を厳しく躾けることが希薄じゃない。自分の自我をむき出しにして育った人間が、社会に出て、あるいは学校で「金太郎飴のように訓練」される。これは常識的な人間に訓練された金太郎飴じゃないのよね。
 リーダーがコントロールしやすい人間に形作っている、金太郎飴だと思うのよ。
 そこで型にはめられるわけで、はめられない人間はドロップアウト。ますます常識からも、社会生活からもかけ離れていく訳よね。でも時々いるのよ。社会からはドロップアウトされているような若者が、話しを聞いてみると、すごーく常識的だったり、人間的に思いやり深かったりするわけよね。
 例えば 「あなたって常識がない人ね」と言われたとすると、自分という人間の全人格を非難されたように感じるでしょう。だから常識は凄く大事なことだと思うし、気を付けなければならないことだと思うのね。
 何か人から頂いたり、して貰ったりしたときに、「お礼を言う」のはこれ常識だわよね。でも、どのくらいのお礼にするか、ってとても難しいと思わない。「ありがとう」と言えばいいのか、「何かお礼の品物」を添えるか、「丁寧なお礼状を書く」か 日本では、特にこの対応でその人の人格を判断されるくらいに大事なのよね。
 この国は、その点もう少し簡単なのよ。もちろん誠意を込めて「ありがとう」と相手に伝えることは、常識。
 でもお礼のお礼にと、何か品物を渡すと、たいていの人はビックリするわよ。日本は、「気持ちは形で表せ」みたいなところがあって、唯言葉って言うのは軽く見られる傾向が有るじゃない。貧乏人には辛いところがあるし、「程度」を考えるのもくたびれちゃうわよね。
 同じように、「お詫びの常識」も難しいわね。お詫びをするって自分の非を認める事じゃない。
 人間プライドがあるから、「相手より自分の方が悪かった」と素直に認める事ってなかなか出来ないのよね。そこで色々言い訳なんかしちゃったりして…。その言い訳で相手の気持ちをさらに逆なでしたりとかね。私の経験からすると、言い訳して上手くいった試しはないわよ。たいていの場合、さらにこじれるのよ。早く詫びちゃった方が良いみたい。
 人間は結局の所、どんな国に行っても、どこで何をしても「ありがとう」と「すみません」の二言を知っていれば生活できちゃうってところがあるわよね。
 この二言を上手に使える人が人生の達人なのかも知れないわね。
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